第二次世界大戦中の昭和20年、父島を経由し硫黄島へ、食糧や物資を届けるため、横須賀から日本艦隊が出発しました。
しかし、三宅島を通過した辺りで、敵国艦隊が攻め入る為、横須賀へ戻るよう命令がありました。
途中、米国艦隊、空、海軍と戦闘。死者、負傷者を出しました。中には16歳の青年などもおりました。遺体は新島へ流され、戦後、故郷へ帰った話です。
この場所に、いったん、弔われました。
私たち神奈川県民は、横浜、横須賀、逗子。領地の没収や弾薬庫があり、横須賀は今でも、海軍があります
シッカリと記録には残したい。ラジオでは放送不可、許諾も降りないでしょう。しかし、薄れゆく戦争の足跡を、伝える事は、8月を迎えるにあたり、大切なことです。
平成生まれの祖父母の代、戦争を知らない世代、焼け野原を知らない世代がふえているからです
たんぽぽ