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3.11私の行動

【”大袈裟な”と笑われた〜後に正しいと判明、自分の命は自分で守る】

40年生きて経験した事ない揺れ方に、異常を感じ、小刻みに揺れ始めた段階で、スーツとヒールを脱ぎ捨て、スエット&サウナスーツ、貯金通帳と実印、保険証書、現金と薬、クレジットカード類とスマホの充電器を雑に詰め込み外へ飛び出した

 

 

玄関でよろけた瞬間「ヤバイ!」と道路の真ん中へ「ダメ!鉄柵が倒れる」「ダメ!背中合わせて!電柱見るからお姉さん、地面見てて!」免震住宅の大家の家が揺れ、テレビが飛び、大家が消えた。さらに、アパートのブロック塀は、真横に亀裂が入った。

 

 

知らなかったのですが「私は、インドネシアの震災で、日本に来たの」「僕は、阪神大震災で家が長田で、」同じアパートの住民が大地震の経験者だった。

 

 

皆で「30分以内に、2度目が来る、必要なものを詰め込んで、ガス・電気・鍵を確認して避難しましょう」急いで各自、家に戻り、ホカロン、水、食パン、ギターと譜面、喘息の薬など、念入りに確認して、5分で戸締りをしてアパート住民が集合、10分後に「来た!同じ位置確認!!」横に手を繋ぎ、頭を低くして揺れを待ち「一時避難場所を知ってます!逃げましょう」と避難

 

 

30分共にし、情報が入手できないと分かり、各自の判断

 

私はゆうちょATMへ「オンラインは大丈夫だ、東京付近が震源地じゃない」ありったけの現金を引落、スーパーへ飛んだ「電気がついてる、クレジットカードが利用できるうちに買いだめしよう!」水・カロリーメイト・ビニール袋・アルミホイルとサランラップを購入。「高台の広域避難場所へ行こう」

 

 

当時は高田馬場に居住。徒歩5分の駅前が進めない。そこで「どいて!!広域避難場所へ行くの!多分、電車は走らないよ!どけ!!」人混みをかき分け自主避難

 

 

新宿の戸山公園にあるスポーツセンターへ、ところが、設備点検を理由に入館不可。テナントのコンビニは営業中。強く抗議し。寒いので、テナントの倉庫に入れて頂き、1時間待った。

中が空いたので、コンセントとトイレ、風のない場所に場所を確保。窓ガラスが割れた見知らぬ大学生と2人。ところが、職員がボサボサしてる「何してんの!テレビとコンセントの場所を!!!電車が止まってる、ただ事じゃない!!」怒鳴ると「あっ!実は、東京が震度5強で・・・」

 

 

何?なんだ!驚いて、これはサバイバルだ、正確な情報を入手しなきゃ、171に電話しなきゃ。初めて、家族の安否が気になったが、けが人の搬送と応急処置だ大学生のお姉さんに、楽器だけ預け、貴重品類のリュックを背負い、職員に指示

 

「机をコンビニの前に!それから、テレビと、電源の確保」初めて、職員が「ここは、広域避難場所ですよね!」気がつき「カンパンと水を持ってきます」と動いた「その前に毛布と1Fの畳の部屋の隙間にダンボールと新聞紙、それから、コールドスプレーと、三角布かタオル、ありったけを持ってきて!」

 

 

皆で情報本部を作り、続々と避難し、場所作りの30分後、30名程の人がいたので「すみません!最新情報が入手できる場所をここに作ります!!携帯の充電器、お持ちの方!提供して下さい!」自分のは、避難して満タンに。

コンビニの前に長机2台、テレビとパソコン・携帯の充電場所、そして「災害伝言ダイヤル、171の使い方」即席でポスターを制作して掲示した

 

 

というか、なぜ私だ?避難して2時間、テレビをつけて、初めて知った、映し出されたのが「原発」きせんさとしの田舎は「むつ」中間貯蔵施設などがあり、親族が被爆したと思った

自分でも分からぬ声で叫び、ガタガタ震え、皆が「しっかり!!しっかり!!」何にも聞こえないでパニックになった所に、平手打ちと膝蹴りが入った「痛え・・・」知り合いの路上生活のお兄さんだった

 

 

「俺だ、ここまで指示したお前が、そんな事でどうする!気を確かに、とりあえず、牛乳でも飲め」と牛乳を頂戴、仲間のお兄さんから「食物を入れろ、食え」と強制的にせんべえを食べた

 

 

「ところで、あんたの家族はどこだ」青森と答えると「テレビをよく見ろ、福島だ」本当だ・・・しかし沿岸部が尋常じゃない赤さに「漁師?チリと十勝沖地震を経験してりゃ、沖に出てる、生きてる、海の者は、海じゃ死なねえ。それより、俺たちじゃ、女の子が驚くだろ、ここは、あんたが、しっかり守れ」

 

 

確かに、中学生・小学生で「お母さん!」と探している子供がいるので、彼女らをなんとかしなきゃというわけで、率先してリーダーで率いた

 

 

けが人がいたが、医療行為はできないものの、応急処置は手馴れていたので、施し、毛布を確保、子供達に、コンビニで無償で、水と食べ物を提供するよう交渉、一角に集め、職員さんに、名簿を書かせ、担当を分散

 

 

そして、さとちゃんとはTwitterで4時間後に安否が確認。171青森に繋がったのは地震発生から7時間後、横浜は全く設置されず。母の安否は2日後、舅の安否は3日後に確認

 

 

わかめの養殖が全滅、80歳の漁師が「今まで経験したことのない、引き波だった」という言葉に身の毛がよだった。

 

 

皆、自分で判断し、自分で行動、自分で安全を確保した。これは、漁師の祖母、そして、横浜大空襲を自己判断で生き延びた祖母→母への教えを忠実に守ったまで。自治体の命令より、自分の足で判断

 

 

だから、思った。なぜ、大きな揺れの後、高台に避難しないのか。、父方は関西方面の漁師。台風で床下浸水など、経験。必ず、風の潮の香り、海の埋め、音を聞き、いつもと違うと感じたら、高台へ自分で逃げる。手助けはするな!そう言われて、実践してた

 

 

なぜ、高台へ?余談だが、当時の家の広域避難場所は、浄水場神田川の真横。安全が確保できないと、自己判断で、早稲田方面の高台へ避難した

 

 

自分の命は自分で守る。今後も、そうするつもりだ。そして、海外にサーバーを持つSNSのアカウントは持つべきが持論。家族のライフラインになる

 

 

長いですが、以上です。あなたは、どうしましたか?

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